カウンセリングがもたらすもの
カウンセリングとひとくちに言っても、
セラピストが立つ各学派の理論によっ
て、そのスタイルは実にさまざまです。
多くは人間の「無意識」を仮定した
深層心理学の立場をとり、それらを
意識化する作業が主であるといえます。
そしてクライアントのペースで概ね
ゆっくりとセラピーは進んでいきます。
セッションを重ね、セラピストはクラ
イアントのこころをなぞるように話を
聴いていき、深く共感し、時に質問を
投げかける。
しかし、決してセラピストが主導する
ようなセラピーであってはならない。
この鉄則を我々セラピストはよく
「白いキャンパスであれ」と教えられ
ます。
飽くまでも我々はクライエントの描く
テーマを映し出すキャンパスであり、
そこにセラピストの個人的な色が邪魔
してはならない、と。
これは決して忘れてはならないカウン
セラーの基本です。しかし余談ですが、
カウンセリングルームでは、クライエン
トがカウンセリングに求めているものや
クライエントの経済状態にも考慮する
必要があり、教訓通りには進まないケ
ースもあります。
また、カウンセリングの場面では、
クライアントも、セラピストも
「有限なるもの」でどこまでいっても
私たちは人間であり、できることには
限りがあります。
このことを忘れてカウンセリングの理
想に翻弄されることは、
とても危険なことです。
つまり、なにも特別なことはいらない。
日々こつこつと、目の前の地道な努力
を惜しまず、真摯に、丁寧に、こころ
とこころのやり取りにひたすら集中し
ていくことが肝心なのだと思います。
とある有名な精神分析派の臨床家と
患者とのエピソードに印象的なものが
あります。
その年老いた臨床家は、ふと部屋に流
れていたバッハの「アリア」を聞いて
、そばにいた弟子にある話をしたそう
です。
それは10年間に渡る治療を終えたある
患者についてです。
その患者は長年精神病に苦しみ、セラ
ピーを受けていたが、ある日突然、
セラピーは終わりを迎えたという。
その日、患者はいつものように同じよ
うな漠然とした質問を投げかけ、
臨床家はその途方もない質問にまた
いつものように頭を抱え、「うーん」と
考えこんだそうです。
しかしその時、患者はふっと笑い、
「もういいよ、先生。十分だよ。」と
にこやかに言い、そのセッションをも
って長い治療は幕を閉じたという。
臨床家はそれ以上そのエピソードにつ
いて話すことはなかったが、その患者
のことばが何を意味していたのか、
なぜこのエピソードと「アリア」が
リンクしたのかについても、
その臨床家は多くは語らず、
聞き手の臨床センスにかかっていました。
そもそも「アリア」は音楽の父バッハ
の曲であり、同じメロディが32曲も続
くという元々は練習曲だそうで、
バッハの弟子が不眠に苦しんでいたある
伯爵が眠れるよう傍らでアリアを弾き続
けた、という本当に不眠症に効果をもた
らす曲です。
アリアは当時全く売れず100年も
の間、日の目を見ることはなかったよう
です。
その臨床家が担当した患者は10年という
長い歳月、ほかのひとには見えない幻覚
と戦い、突如襲ってくる自死の念慮に苛
まれながら、闇の中を歩き続けた。
そして先生はその患者の不毛な問い
(想像するに「自分はなぜ生まれてきた
のか」や「なぜ生きなければならないか」
というような質問であったと思います)
にいつも真剣に向き合い、
頭を抱えながら出口の見えない闇を一緒に
過ごした。毎回の治療で、患者の質問に対
して先生が頭を抱えることは、傍から見れ
ば時間の無駄に思えたり、無能な治療者の
姿として映ったりするかもしれません。
しかし、患者を思い、真剣に苦しむその姿
こそが、患者にとっては生きていく覚悟を
決める上で一番のちからになったのではな
いでしょうか。
「このひとは私のためにこんなに苦しんで
くれている。こんなに真剣に、こんなにも
自分の時間を割いて向き合ってくれている」
その感覚は患者にとって、自分のいのちには
それだけの価値があるのだ、ということを示
してくれ、それだけの価値があるのならば生
きていこう、という意味づけになったに
違いありません。
伯爵のために必死で演奏を続けたところで伯
爵が眠りにつけたのかは分からない。
バッハが作曲に費やした時間や労力も無駄に
終わったのかもしれない。
しかし、この費やした時間が、その必死に動
くその姿が、伯爵の疲弊したこころを癒した
ことと思います。
「アリア」はイタリア語で「Aria=空気」、
空気のように当たり前にこの世界に生きるこ
とは奇跡であり、
何らかの足止めに苦しむひとが溢れている。
その傍らに、空気のように当たり前に存在
し、尽きることなくそのひとを包み、
目には見えない地道なはたらきかけを、
変わらぬ同じ旋律を保っていくことがその
ひとの苦しみに意味をもたせ、癒すことに
つながるのかもしれません。
まるで母親が生まれたての赤ん坊のしぐさひ
とつ一つにつぶさに反応し、微笑みかけるこ
とで、だんだんと物事の区別がついていくよ
うに、混沌とした不安の渦の中に、セラピス
トはぽつぽつと小さくも確かな明かりを灯し
ていくような役割を果たしていく存在であり
続けたなら本望です・・・できるかな?