ソーシャルディスタンスと「見るなの禁止」
カウンセリングの場では、以前なら友人と会って緩和していた心の問題やストレスが、自粛生活で発散する機会が減り相談に来られるクライエントが札幌でも増えています。
いい加減に元の生活に戻りたい、コロナさえなければ、という思いはやはり変わらずにあるものです。
この度のコロナウイルスのパンデミックには、いくつか特徴的な心理的不安要素が含まれているといえるでしょう。まず相手が「見えない敵」であるという点です。
地震や水害などの天災も、もちろん突如として起こりうるものですが、ウイルスの最大の特徴といえば、肉眼では確認できないという脅威です。
神経症の一つに、手を何度も洗ったり、他人の触ったものに触れられなかったりと過剰に反応する「不潔恐怖」と呼ばれる恐怖症があります。
程度の差こそあれ、細菌やウイルス感染など人体に影響を及ぼす可能性のある「汚染」に関する反応は人間の潜在的な防衛本能としてもともと備わっているものです。
特に日本はコロナ禍のずっと以前から除菌をはじめとする「汚染」を防ぐための衛生管理・対策がすでに定着していました。
「他人が触ったもの」を不潔なものとして認知し、いつしか「他人=汚いもの」と他人を嫌う傾向にさえ発展した今日。
その根幹には、「知らない人」に対しての不安が垣間見えます。
社会心理学では、集団の内と外で明らかな認知の違いが生じることが知られています。
近年の日本における「知らない人」は、もはや漠然と「自分(身内)以外の未知の者」として認知され、区別されています。
また、ネット社会に加え、スマートホンなどの普及により人と人との関係性が「選択可能」になっていることもこの区別に拍車をかけているようです。
つまり、今はこの人とは繋がる、あの人とは繋がらない、という具合に手元で簡単に選択し、操作できてしまう世の中なのです。
このような独特な人間関係を結ぶようになった現代社会に、今年は人類史に残る大きな禍が訪れました。
新型コロナウイルスの世界的パンデミックです。
致死率はさほど高くないウイルスであることが分かってきたものの、もともと「死」から遠ざかって生きてきた我々現代人にとって、「新型」というだけで十分な恐怖の対象です。
あっという間にヒトヒト感染で拡がるウイルスの猛威が、ただでさえ触れたくない「他人」、「知らない人」への不潔恐怖を煽ります。
さらには無症状という厄介な状態を呈することもあるコロナウイルス。
「誰が感染者か分からない」という点でますます他人との距離が生まれます。
街中から人が消え、マスク、消毒液は必須。
そして人の集まる場所では感染防止対策の一環として他人との間に2メートル以上の距離をとる「ソーシャルディスタンス」が常識となりました。
キスやハグなどのスキンシップをとることが習慣であるヨーロッパや南米などの国々では、このソーシャルディスタンスのとれなさが感染を一気に加速した要因ともいわれました。
一方日本人は、キスやハグなどはおろか、家族間でもスキンシップはほとんどとりません。
しかし、そんな我々でも他人との2メートルの距離はやや不便さを感じるものです。
不思議なもので、ソーシャルディスタンスをとりなさいといわれて初めて、他人との距離を意識するのです。
これはなにも物理的な距離だけではありません。心理的にも私たちは他人を今まで以上に意識して生活しています。
精神分析の世界に「見るなの禁止」という概念があります。
簡単にいえば「見るな」と禁じられたものほど興味を駆り立てられ、結果的に悲劇を招くものであるという概念です。「カリギュラ効果」とも呼ばれています。
人はあえて他人に禁じられたことをして、「行動を制限する」というストレスから解放されようとします。
わざわざこの時期にパーティを開いたり、パチンコ店へ人が殺到したりしたのもこの現象といえましょう。
そして今まで以上に明確に他人との距離を呈示され、なるべく人と接することのないよう、自宅に籠ることを強いられた私たちは、
今までにない非日常のストレスを体感することとなりました。
ここでも「見るなの禁止」効果が働き、「人と会うな」といわれると会いたくなるものです。
人々は、普段おざなりになっていた家族との時間を見つめなおし、オンラインで繋がりあい、人との絆を確かめ合おうとしだしました。
結果的に日本社会にとっては、人とつながるという価値観を見直すいい機会になったのかもしれません。
環境や動物に精通する専門家の間では、この新型コロナウイルスが人間に感染するような事態を招いたのは、他ならぬ私たちであるという意見もあります。
もともと自然界においては、コロナウイルスを有する生物は普通に生息していたし、何も珍しいことではなかったというのです。
ただ、私たち人間が環境を破壊しつづけ、生態系が乱れ、生息地を追われた野生動物たちと人との距離が近くなってしまったことによる弊害であると。
ここにも守らなくてはいけないソーシャルディスタンスがあったということになります。
このような地球規模の観点からしても、現代社会に生きる私たち人間は、
もう少し「自分以外」のものとの、自分勝手に近すぎず、無駄に遠すぎない、「適切な距離」を考え直す必要があるのかもしれません。